音場のひとりごと

  

<食育の意義>



第2次小泉改造内閣が発足した。閣僚記者会見の放送を見た。
文部科学大臣への記者の質問で「食育」についてのやり取りがあった。米がどうのこうのとか、カルシウムがどうのこうのとか…。
私は、この低い次元の議論に落胆した。

「食育」は偏った食行動による健康への懸念を文科省に研究会を設けて検討していることがらで、栄養教育ではある。
「食」は生活習慣の大きな要素で、「食についての教育」を充実させようというのであるから悪いことではない。
しかし、本当に大切なことは「食を通しての教育」こそ「食育」の意義があると考える。

われわれ人間が生きてゆくための「食物」は、植物や動物の「生命」を「いただいて」成り立っている。われわれが生きてゆくことは、別の生命の犠牲の上にあるということである。
自分で家畜を育て、その家畜を自分の手で「と殺」をすることを想像すれば、その肉を粗末にはできないであろう。
自分が生きていられることの「感謝」と「食物連鎖の頂点」にいる重み、ゆえに他人の生命も「大切」にするという意義を「いただきます」を通して教えていくことが、食育の本質であると考える。

このことは、食を扱う企業の風土にも当てはまる。
音場の「場の理論」でいうなら「日常(慣れ)が次元を下げる効果」で認識が甘くなってゆくのである。
牛肉の偽装事件は国の補助金目当ての罪に注目が集まった。在庫の肉の処分という「無駄な生命の死」をなんとも思えなくなる日常の罪には
「食育」による次元のアップが意義をもたらしたはずである。

  


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